〇我が家の新聞について
我が家の新聞は、兵庫県加古郡東二見に住む国民学校生の森本隆くんが、戦地へ行き負傷して広島の病院へ入院しているお父さんに、家の様子や親せきのおじさんおばさんの様子、そして当時の戦況を知らせるために書いたもので、24号発刊されています。そのうちの昭和19年10月下旬号から昭和20年7月までを載せます。
この家族は、終戦前の昭和20年頃、父、母、と5人兄弟の7人家族です。父は出征し、戦地で負傷して広島の病院で過ごしています。母は家事をしたり、子どもの世話をしたり、縫物をしたりと毎日大忙しです。長男「隆」は、国民学校の高等科ですが、病気がちで家にいることも多かったようです。体は弱かったようですが、絵が上手でこの「我が家の新聞」の作者です。長女「益江」も国民学校に通っており、弟の子守をよくしています。次男「日出男」は、最初は幼稚園で4月から国民学校1年生です。三男「眞司」は、3~4歳ぐらいでやんちゃ盛り。四男「昭美」は、1~2歳ぐらいで、ようやく歩き始めた赤ちゃんです。近所の人が出征していく様子や空襲から避難する様子などから、ひたひたと戦争の激しさが足元に迫ってきていることがよくわかります。お父さんに手紙のように書かれている部分について訳文をつけています。
〇表紙
〇昭和19年10月下旬 第13号
お父さんその後お身体はいかがですか。家の者はこれから書きますようにみんな元気でほがらかに毎日を送っておりますから、心配されず1日も早く良くなられ、再びヤンキーを撃ってください。
我が家
お母さんはお元気で、毎日僕たちの世話からおばあさんの家の縫物、その上まだよその縫物まで縫われるので毎日本当に忙しい日を送っておられます。僕もお父さんが行かれてから不思議なほど元気になって、毎日時のたつのが早すぎるくらい毎日の朝日新聞、少國民新聞を隅から隅まで1字も余さず見て、それが終わると本を読みます。その上、三度三度の火こしらえは僕です。またその間には、忠之兄ちゃん利一兄ちゃんにお便りするのでとても忙しいです。この頃はもう長ズボンをはいているので兄さんらしくなったとお母さんが言われました。益江も大変元気で毎日学校へ通っております。この頃学校へ行くときは防空頭巾をもっていきます。日出男も元気です。この頃は幼稚園は弁当がいります。眞司も大変元気です。よくしゃべって面白いのですが、根性が悪く怒ると大変難しい顔をします。お父さんが内地へ帰えられたと教えるとお父ちゃん(我が家2へ続く)
(我が家1の続き)とこへ行って笑わしてやると言っております。昭美も大変元気で、この頃上にも歯が2本生えました。とても口元がかわいいです。この頃、前の我が家の新聞も書きましたが、万歳もしますし、頭てんてんもします。せっせせというと手をたたくし、ぽっぽぽと言うと鳩の羽ばたきもします。また2,3日前からこんにちは、おおきにと言うと頭を下げます。日出男の今月出席カードは、花火の上がっている下を兵隊さんが通っているところです。
川崎から写していただいた慰問写真お母さんが送られましたが、手に入りましたか。眞司の難しい顔見てください。家では毎日日出男のしょんべんたれとかなんとか偉そうなことばかり言っているくせに、写真はまだあまり写したことがないので、写してやるというのに奥の座敷へ逃げて、寝る真似をしているところをお母さんが抱いてきたので、あんな難しい顔しているのです。また日出男は、夏で、ものが頭にたくさん出来てしけているところです。昭美は大きな目でかわいいでしょう。もう早や、お父さんが家を出られてから1年。お父さんの出られる前、朝鮮の高井という子と友達になりましたが、その後もずっと仲良くし、この間「いりこ」送ってくれました。ではお父さん1日も早く全快されんことを家中の者がおいの(りしています。)
〇昭和19年10月下旬 第15号
お父さんその後もお身体は良い方です日か。家の日者はみんな元気です。これからその内容を書きます。家のことは心配されず、1日も早くヤンキーを撃滅してください。
我が家
お母さんはその後もお元気です。夏の間暑いので山へたきぎしに行きませんでしたが、29日涼しくなってから初めて山へ行かれました。春の我が家の新聞に書きましたが、お父さんの手に入っておりませんのでもう一度お知らせします。たきぎが少ないので山へ行ってしばしてきます。それから菜っ葉は一番上の湧いているところへ洗いに行きます。井戸で洗うよりきれいになりますのでずっと行っておりました。それで春頃はおとぎ話に出る爺さん婆さん二役と言っておりました。僕も大変元気です。29日お母さんが山へ行かれ(行かれる前にしかけておられたが)た後、僕が火をいこしておちんもしてやり、昼のおかゆも炊いておきました。益江も大変元気です。よく昭美のもりをしてくれます。でもお母さんのお仕事が少し長いときには辛抱できず昭美を泣かしてしまって叱られます。「もう子守がいや」と思うとなかなか言うことを聞いてくれないので困ってしまいます。日出男もこの頃はものが治って元気です。毎日幼稚園は弁当持ちです。でも水曜日と土曜日入りません。眞司も大変元気です。毎日よく日出男を泣かします。この間お父さんにお送りした写真、眞司がお父さんによく似ていると戦友に言われ吹き出したと書いてあるとまた、笑わしてやるという。
昭美も大変元気です。この頃はご飯の時はみんなの仲間入りです。お膳が首のところまであります。ご飯を5本の指でつかむのでそこら一面ごはんまぶれにまいてしまいます。おなかが大きくなるとわざと手を振ってまいてしまうのです。また、おばあちゃんにきなこ持ってきてもらうとそれをご飯にまぶしてやります。すると喜んで食べます。30日米の配給に芋が付きました。珍しいのでお腹を壊さないかと思うくらい一生懸命食べておりました。(おわり)
お父さん、我が家の新聞にごほうびありがとう本当にうれしかったです。益江に1円日出男に50銭(10銭や5銭1銭と混ぜてやると1番ようけと喜んでおりました。)お父さんから賢い子にほうびと言うと「眞ちゃんかしこいで」と言うていました。30日昭美の誕生で豆ご飯炊いた。配給でボラが当たったのでそれをお頭付きにしてやった。するとお膳に座って一人前にボラも身をめんでやると食べ、豆ごはんも豆のけてやると一生懸命食べていました。23日やす人に神社りんじ大祭で?兵隊があびに来られ漁師の家でタコ分けてもらって炊くのに困っておられたので僕の家で炊いてあげました。弁当を益江と眞司にくださいました。その上、7人の兵隊さんが3円50銭くださいました。そんなのもらってはいけないと追わえると逃げてしまわれました。ではお元気でまた送ります。
〇昭和19年11月上旬 第16号
お父さんその後もお元気のこと何よりと喜んでおります。家のものもみんな元気で左のように張り切っております。
我が家
お母さんも大変お元気で、今日はお父さんとこへ行ってこられた後片付けをしておられます。僕も元気です。お母さんの留守の間おばあちゃんでは勝手がわからないので台所の指揮官になりました。台湾沖航空戦大戦果貯金は、お父さんにもらったお金で僕が2円しました。すると戦果酒が3合当たりました。益江も大変元気で弟たちのもりをしています。益江の先生はこの頃赤ちゃんが出来られ、休んでおられます。赤ちゃんのお名前は次郎ちゃんだそうです。今日は運動場に敷く砂取りに海へ行くと、入れ物取りに帰った。日出男も元気です。お父さんの面会に行って広島でみんなに可愛がられたくさんごちそうになり、しくじってしまっていますが、そう大したことはありません。今日も元気で幼稚園へ行きました。今月の出席カードは上のようです。眞司も大変元気です。お母さんの留守の間、日出男しっこするのでやいとしに行っていると言うと大変おとなしくしていました。でも僕やおばあちゃん、益江の話を聞いていて、お母さんがお父さんの面会に行っていることを悟ってしまってお母さんが帰ってく(我が家2へ続く)
ると「お父さん広島におったか」と言っておりました。荒木さんでお母さんが柿をもらってきてくださると、今年になってから渋柿を一度食べただけだので干さな食べれないと思ってかかえておりましたが、お母さんが「むいて食べ」と言ってやると一口食べて「おいしい」と目を丸くしてびっくりして喜んで食べておりました。昭美も大変元気です。この頃は食べ物を見ると「食べさせ」とやかましいことです。生の芋を切って鍋へ入れていると、「くれ」と言うので生のをやりました。すると口へ入れておりましたが、しまいに怒ってぶつけてしまいました。迎えの宮北のおじさん6月1日忠之の兄ちゃんと一緒に出征されたが1日に帰られた。高井君いりこ送ってもらったので近所へあげた隣前ももらってと気の毒がっておじいさんが会社で当たってきた干しバナナ7本もくださった。昭美までが喜んで1本きれいに食べてしまって、まだ僕のも取りに来る。11月10日日出男が幼稚園へ入って初めての遠足。握りご飯の上へ海苔のしてやると喜んでなかほのお宮へ行った。お父さんではお身体を大切に・・・またおくり(ます。)
〇昭和19年11月下旬 第17号
お父さんその後もお元気ですが。お父さんが出征されてからもう早や丸1年も過ぎて憎きヤンキーに戦を始めた12月8日もまじかに迫り、決戦の火ぶたは切られて毎日毎日レイテでの奮戦、特攻隊の奮戦ヤンキーにとどめを刺す秋がやってきました。我が家もそのつもりで「買うより工夫」「欲しがりません勝つまでは」「不足は言いません勝つまでは」で頑張っております。
我が家
お母さんは毎日家のことをして三日に一度ほどたきぎの配給が少ないのに三度三度炊くので、コークスを拾いに行きます。(会社が石炭を燃やしたかすの中に混じっている)少ないときで手さげかごに一杯。多いときで手さげかごに2杯くらい拾ってこられます。一緒に行く田中さんという人は子どもを連れないのでもっとたくさん拾われます。僕も元気でお母さんの拾ってきたコークスを三度三度いこすのが僕の役目。毎日の新聞(朝日と少國民)を隅から隅まで読んでしまい、3度の火おこしその合いに我が家の新聞つくり、また忠之、利一兄ちゃんに慰問するので、「近所の人が兄ちゃん退屈でしょう」と言われるがなかなか退屈などしません。まだ欲張って少年娯楽部も読みたいし、友達と手紙のやり取りもするので晩8時から朝5時半までぐっすり寝て、何もわかりません。益江も元気で弟の守をよくしています。昨日づぐわ?かきかた良上を?もらってきていたのでほうびに本やった。日出男も元気で幼稚園へ通っています。もうはや8ヶ月(我が家2へ続く)
(我が家1の続き)通い、あと4ヶ月で幼稚園も済み、1年生の日を数100までどうにか数えられるのでその日を指折り数えております。眞司も元気です。僕が賢い子に本をやると言うので眞司はこの頃喧嘩すると益江でも日出男にでも「本やれへんわへ」と言ってけんかするので、うかうか眞司の前で何言うも気をつけねばならないと思いました。昭美も元気で毎日僕たちを笑わす種をこしらへ、ご飯の時でもとても賑やかです。この間益江が学校へ行った後、お母さんがしまいごとする間、僕が遊んでやっていると、だんだん飽きてきて座っていたのに「うんうん」と言って顔をしかめ、僕のひざへ登ってくるので抱いてやりすると、今度は「立て」というので困りました。益江と同じように思っているのです。(終わり)10月29日(前に書けなかった)神戸森さんせんどぶりに来られた。おばさんはやっぱり親切で僕に石切さんのお守りを持ってきてくださった。それからお母さんが出した砂糖茶でもみんなに隠しておいて僕の勉強しよるとこへ持ってきて飲めと言ってくださる。おばさんは知らずにお守りをもってきてくださったが、おばさんが来られる前から首のとこへ大きなできものができていましたのでそのお札で毎日できものら口が空いて膿がたくさん出ていっぺんにへっこんでしまいました。また11月18日にもこられ、配給で当たったみかんくださった。お父さんの友達の田中さん、お母さんが会社へ会いに行っても休んでいられるので手紙出していたら22日に来てくださった。ではお父さんお元気で。また12月15日に送ります。
〇昭和19年11月15日発行 特別号
お父さん我が家の新聞特別号を作りました。特別号とは、お父さんが家を出られてからの主なことで今までに我が家の新聞で送ったが手に入らなかったり、また手に入った新聞でもその中へかけなかったことを書いたものです。
お父さんが出征される前に鳥取県の震災の時に「医療切符」を震災地の人にあげてくださいと新聞社へ送りました。震災地の人は困らないからと送り返されましたが、その心が良いと新聞に出たことはお父さん知っておられるでしょう。その医療切符を県庁へ献納せと言われ献納しました。そうして東条さんから感謝状を頂きました。右の絵がその感謝状です。
お父さんが出られる前から買っていた弾丸切手が今月で124円になりました。昭和19年のお父さんお留守のお正月、秀吉のおじさんが益江や日出男を明石へ連れて行ってくださいました。活動を見せて帰りにおもちゃを買ってもらっていました。僕にも飛行機凧買ってくださいました。古田のおばちゃんはお餅が少ないからとメリケン粉を持ってきてくださいました。須磨のおばあちゃんはその時からだが〇〇れました。春市おじさんがお小遣いをくださいました。忠之の兄ちゃんは、荒井の会社でもらった配給ものをたくさん持ってきてくださいました。僕にそれからも水あめをよくくださいました。利一兄ちゃんは何もやるものがないからと5円くださった。6月1日忠之兄ちゃん出征される時、お金お母さんと僕には10円くださった。
お父さんが家を出られてから.毎日三度三度かげ膳をしております。眞司はそれを後できっと食べて「お父ちゃんのごはん」と喜び、僕達が食べると大変怒って泣きよりました。でもこの頃は昭美がご飯食べるようになったので昭美にやりますのでもう諦めております。お父さんが内地を出られたじぶん、眞司は何か欲しくなると「お父ちゃん所へ行こう」というので困りました。〇〇いうとお父さんが姫路におられる時、面会に行っていただいたので、いつまでもいただけるように思っているのです。4月27日軍人援護運動で、出征家族に大きな地図をくださいました。僕が「大東亜地図が欲しいと思っていたところで本当に嬉しかったです。6月29日の援護会には、出征家族に、はいとりリボンをくださいました。また、日は忘れましたが、「知事さん」から歯磨き粉を頂きました。春の掃除はお母さんが一人でされました。益江は弟の守し、僕は電気の傘洗いをした。あとはみんなお母さんがされ、下の畳がよく傷んだと二階の戸一人で入れかえられた。お父さんが出征されたころ会社の人がよく来られました。田中さんには日出男の靴や着物、前掛けくださいました。藤田さんは来るたびにお金くださいました。(終わり)
〇昭和20年2月発行 第18号
お父さん長らく休み。堪忍してください。またこれから続けます。昭和20年も戦いにうち勝ち憎き米鬼撃滅に頑張ります。
我が家
お母さんは大変お元気で毎日コークス拾い、または山へたきつけ取りに。家におられる時は益江のかばんを廃物利用でこしらえてやったり、防弾頭巾を作ったり日出男の学校へ行く時の服を編んだり毎日やっぱり大変忙しい日を過ごしておられます。1月30日少し頭痛いと言っておられたが、朝方だけでした。僕も風邪ひきもよくなり、大変元気でまたご飯がおいしくみんなに負けないくらいに食べるようになりました。45日前に忠之の兄ちゃんにお便りしました。益江も大元気で毎日学校へ通っております。お正月は5日の休みでした。日出男も元気です。1月の出席カードは凧と羽根つきの絵です。幼稚園のお正月休みは、24日が休みだったので24日から1月5日まででした。日出男らの幼稚園の教室は戦いのためなくなり、学校の講堂で勉強しています。これも米鬼のためです。眞司も元気。丸々太っております。いくら食べてもお腹をこわしません。根性が悪く自分の不利なことになると目をつぶって寝たふりを(2へ続く)
(1の続き)しています。よくわかっていて悪さするので困ります。また、近所の自分の知っとる家のお父さんはみんな兵隊のように思っているのです。その1つ2つを書いてみると、「みどりさんのお父さんかえっと今。眞ちゃんのお父ちゃん前帰ったけどすぐ行てもたなあ」また、川口という家の話をしていたら「川口さんのおっちゃん昨日通りよったで。兵隊に行きよったわ。」工場へ行くことを兵隊という。昭美も元気です。この頃「いやいや」「ねんね」「うまんま」など言います。「うまんまうまんま」と言って何でもよく食べます。おにぎりでも5つぐらい食べます。お母さんが山へ行かれる時しておいてやるとそれを食べて遊んでおちちをほしがりません。1月1日古田のおばあちゃんと高校でお客さん呼んでご馳走されたと晩にそのご馳走持ってきてくださった。秀吉おじさんがお正月の前の日来られ、「みんな分け」と30円くださった。しげきちゃんにじんべあげた。うでづかのおばさん「お年玉みんなで分け」と5円くれた。(3に続く)
昭美お正月に餅した時、焼きかけると大喜びで踊るような恰好するのでみんな大笑い。日出男や眞司がはたへ来ると取られると思うのか「あっち行っとれ」という。古田のおばあちゃんが来られるとき、弁当に握りごはんを時々持ってこられますと、あっちから1つこっちから1つと取ってしまいます。昭美も一人前ですよ。古田のおばあちゃんお正月忙しかったので六日に来られた時にお年玉「みんな分け」と三円くださった。神戸のとらじおじさん僕にお年玉一円くださった。忠之の兄ちゃんは軍隊の初めての正月(昭和20年)は足を痛めて寝ての正月でした。でも今はもう元気になられていられるそうです。お父さんにいただいたジャバのお金、高井君(お父さんも知っておられる朝鮮の子)に1枚分けてやりました。すると大喜びの礼状がきました。また高井君に「いりこ」1俵いただき、それを古田のおばあちゃんに持っていってもらってもち米と代えてもらい、1月30日にたつみやの兄ちゃんについてもらってお母さんが混ぜて餅をしてやりました。みんな大喜びですが、昭美や眞司の喜び方は格別です。お母さんに負われてたつみやへつきに行ったときから「くれくれ」とやかましいことで、やるとその場で3・4つ食べた。
お父さんが広島病院におられる時、古田のおばあちゃんにお正月のお年玉に弾丸切手とお金ことづけてくださった。益江、日出男眞司に2円をわけてやり、あとの3円は献金しました。益江は学校でお年玉に「氷砂糖」が7銭あたりました。1月25日会社から帰りと春市おじさんが来られ、「みんな分け」と5円くださいました。おじさんの話によると、友達の藤田様の家がB29のためやられたとか言っておられました。藤田様とは会わないのですがある人から聞いたそうです。お隣からよく珍しいものをくださいます。29日うどんくださいました。昭美がすきなので早速炊いてやると大喜びで「つるつる」といわしながら食べました。神戸のお父さんの友達の田中さんのおばさんが28日たどんを持ってきてくださいました。僕たちには配給のみかんも持ってきてくださいました。まだその上僕たち4人に50銭ずつくださいました。お母さんがこしらえた大根の切干やお漬物をあげました。古田のおばあちゃんがあっちこっち商いに行った先でよくお餅やかき餅をもらうとおばあちゃんはよう食べず、僕とこへ持ってきてくれるので眞司が楽しみにしている。お父さん大変遅くなってすみません。続けて2月号を書くつもりです。
〇昭和20年2月 第19号
お父さんお元気ですが。今年は大変寒く、よく雪が降ります。23日、前から降った雪が5,6寸から積り、今日はそれが解けるので雨のようにぽとぽとと屋根から落ちております。(右の絵は僕の考えた少國民の米鬼英鬼を跳ね飛ばしている所です。)
我が家
お母さん大変お元気で毎日僕たちのお世話やいろいろのことで米鬼に勝つため一生懸命です。僕も大元気。朝でも6時早いときは5時から起きます。字を書いたり本を読んだり元気になると退屈する間もありません。今度二見に本屋がなくなったので土山へお母さんに買いに行ってもらうことにしました。益江も大元気で毎日学校へ通っています。もう3年生も終わりに近づき80銭で記念写真を写すの相談ができよりましたが、「ぜいたくはしません勝つまでは。」でやめたそうです。日出男は風邪引きで幼稚園を休んでおりましたが、5、6日前からすっかり良くなっていたのですが、寒いので今日初めて幼稚園へ行きました。眞司は、2日前から風邪気です。今年は寒いので風邪引きがよくはやります。この頃の風邪は耳が悪くなります。日出男も耳が悪いと言っていましたが、眞司は耳が「くしゃくしゃ」言うと言います。でもご飯は多さん食べるので大したことはありません。(2へ続く)
昭美も大元気でものんきなのか友達がみんな歩くのに「よいよ」というといやいやと言います。僕に似てしゃべりです。益江が学校へ行く時、「まあまあ」と頭を下げます。時計が鳴ったり益江が帰ってくると大喜びで踊るようなかっこをします。僕たちが時計の真似をしてもよく知って喜びません。それから2月から米と差し引きの食パンをもらっております。毎日昼から益江か日出男が持って帰ると早く切れとやかましいことです。切ってやると僕たちと同じように食べます。(終わり)2月10日うでづかのおばさん来られた。僕に1円3人に50銭ずつくださった。この間から肉が百目当たったし古田のおばあちゃんにメリケン粉大根もらったので大根や肉入れてカレー3.4へんした。お父さんの影膳に据えてお父さんが好きだのにとうわさしました。また3月1日お父さんのお誕生に小豆ご飯を炊くとお母さんが言っておられます。古田のおばあちゃんは来るたびおかきか餅かおむすび持ってきてくれますが、7日は何もないと僕に2円くださった。
お母さんが何でもあったらよくあげるので、今日はたつみやからはんしゃ梅の瓶詰やるとか花をやるとか。また今日は隣からみかんあげ、豆腐、また灰もやるとか、かぶらやるとか今日くださいます。3日ほど前も雪がたくさん積もって、焚き物しに行けなかったら、僕の家も当たっているのに辰巳屋ぎよむようが当たったと焚き物持ってきてくださった。10日のぢよかいでお母さん焼夷弾の本物見せてもらった。2月14日大阪のかつえおばさん来られ、なんば(トウモロコシ)とお金2円くれた。昭美なんば大喜びで1袋食べてしまってまだくれという。忠之兄ちゃん21日休暇で神戸へ帰られたが、日がなかったので僕の家は来られませんでした。15日須磨のおばあさん来られた。明石のひらたのおじいさん亡くなられたのでこうぜんおばあちゃんにことづけた。古田のためじおじさん来るたびに1円か50銭くださる。うでづかのおばさん自分のじばん小さいので益江にくださった。お豆腐やの隣の荒木さんへお客さんで布団1丁貸してあげていたら小豆や厚揚げ、こんにゃくくださった。大阪のききょうのおじさん、ただよっちゃん連れてこられた。2円くださった。隣保の写真屋からおかきやつりぼしくださった。写真屋も子どもが多くさんあるのに。古田の大西のおさくさんあられくださった。珍しいので眞司大喜び。早速言ってやった。その入れ物のかごは益江にくださった。26日須磨のとらじおじさん来られた。お母さん服のほころび縫ってあげた。日出男に50銭くれた。ではお父さんお元気で。またお送りします。
特別ページ 航空はてな?ハテナ?
(1)上の絵は敵戦闘機リパブリックP47型(上)とノースアメリカンP51型です。はて、両機の機関部はどちらが水冷式でどちらが空冷式でしょうか。
(2)次の3題をとんちで答えてください。(イ)糊もはけも使わずしかも走りながら張るものはなんでしょう。(ロ)桜の木の上に不時着した飛行機の搭乗者はどうなったでしょう。(ハ)今度の欧州戦争では、かの有名なドイツのツエッペリン号の活躍がありませんが、なぜでしょうか。
(3)おやっ素晴らしいなあ、下の飛行機はどっちへ旋回するだろう。さあお父さんも考えてください。
(4)次にあげたのは独、米、英、の主な飛行機の名です。どれがどこの機でしょうか。かっこの中に国名を入れてください。イ、ハインケル117 ロ、カーチスP40 ハ、ハリケーン ニ、メッサーシュミット109 ホ、コンソリデーテッドB24 ヘ、マーチンB26 ト、グラマンF6F チ、スピットファイヤー リ、ボーイングB29
(5)水上機が燃料を使い果たし、母艦目指して帰ってきました。しかし、あまりに波が高いので着水できません。母艦はどうゆう風にしてこの水上機を着水させるでしょうか。(答えは3月の我が家の新聞にて)
〇昭和20年3月発行 第20号
お父さん昨日のお便りで驚きました。また病院へ入院とのこと。今度は目が悪いとのこと。1日も早く良くなられる日を家中みんなでお祈りしています。
我が家
お母さんも大変お元気です。この頃試験休みで益江が昭美のお守りをするのでお母さんはよく山へしばしに行かれます。僕も元気です。この頃はまた僕が良く肥えたとみんな言ってくださいます。明日4月1日から少国民新聞がなくなり、僕の楽しみが一つ減ります。でもこれもアメリカ鬼のためです。こんなことでへこたれません。アメリカ鬼にとどめを刺すまでどんな不自由にもうち勝ちます。益江も大元気、機嫌のいい時はよくお手伝いしてくれます。26日通信簿もらってきました。良上と良下ばかりでした。可がないだけましでした。4年生は4月2日からだそうです。日出男も無事幼稚園を卒業いたしました。卒業日くらいからはしかにかかりましたが、卒業日の写真も写しました。今はもう治っていつもの通りごんたばかりしております。1年生入学もまじかですがまだ役場から日を言ってきません。(幼稚園の3月の出席カードと免状は2ページに載せます)
眞司も元気ですが、日出男と一緒にはしかしました。でも今は良くなって相変わらずおしゃべりをしております。怒ると寝る真似です。昭美もはしかよくなって大元気です。小さくとも怒ることを(2へ続く)
(1の続き)よく知って、よう歩きもしないのに怒ると抱いていても振り切ってはって向かいへ行ってしまいます。(おわり)
26日から大阪のかつえ小母さんが「ただよっちゃん」「たかこちゃん」「かずなりちゃん」三人と一緒に来られましたのでこの頃は毎日にぎやかです。戦に勝つまでは戦ゆうあいで助け合ってアメリカ鬼にとどめさすまで頑張ります。日出男入学の本が戦のため少なく、手に入りにくいのでたつみやで「むっちゃん」のを借りました。益江は「まっちゃん」のを借りました。3月の出席カードは下のようです。左下は免状です。1日お父さんのお誕生。小豆ご飯炊いてお祝いしました。影膳し始めてから1年以上たち、お写真入れ僕が作ったの傷みましたのでさらのを作りました。この頃時々丸六で自転車の型のせんべい焼くやつ買ってきて家で焼いてやる。6日久しぶりに魚ぼら当たったが吉野さんとこへ持って行った。とらじおじさん4日来られた時、1円、11日は5円くださった。大阪のかつえ小母さん6日来られた時、3円くださった。20日うでづかのおばさん来られ、10円とゴムたくさんくださった。(3へ続く)
(2の続き)24日春市おじさん来られ、昼ごはん食べて帰られた。5円くださった。広島の荒木さんからこの間お便りがあって、2月5日までも病院におられたのなら面会にも行くのにと大変謝ってこられた。空襲になると隣保の人がみんな親切にしてくださる。手のある家や班長の室田さんなんか僕の家の前を見張りしてくださり、入口は開けておいていざの時には連れに入ってやると言ってくださいますので心丈夫です。27日大阪のおばさん帰られる時5円くださった。(かつえ小母さんは帰らない)とらじおじさん27日に来られた時大阪の子もいたので6人に50銭ずつくださった。忠之兄ちゃん病気で岡山病院へ入院されていると24日春市おじさん聞いた。16日の神戸空襲の見舞いの便りお母さん忙しいので森さんもおばあちゃんの家も僕が書いた。21日春季皇霊祭古田からおはぎもらった。
〇昭和20年4月 第21号
我が家の新聞1は、紛失してありません。
(我が家1の続き)のものにするとよいので、みんなが「こいつのかばんええのええの」と言って後ろからかくので傷だらけです。先生は森田先生です。眞司も大変元気です。このあいだ帽子を買っていただきました。するとその帽子に桜といかり⚓の徽章がついていました。すると「予科練」「予科練」と大喜び。寝る間もご飯の時も離せず、2,3日は、予科練が泣いたらおかしいと泣かず、偉そうにしていました。「七つボタンは桜にいかり」の歌で予科練はよく知っているのです。昭美も元気で、毎日「うまんま」「ウマ」電車のこと「ピー」汽車のこと「ポー」と毎日よくしゃべっております。口はよく回るのですが、まだ歩きません。しゃべりは僕に似ていると言われます。(終わり)4月1日神戸の森さん蓄音機を分散疎開に持ってこられた。大阪の子もみんな50銭ずつくださった。配給のこうやや石鹸までくださった。3日二見近くの女の節句で配給の海苔と写真屋でもらったおこうことですうもなくまいてもらった。?和江おばさんの岡山の弟出征した。
4月5日から神戸の空襲で焼け出された風呂屋の親戚の人が、にかえに来られました。おじさんとおばさんの二人きり。一人の子は一人の子は海兵園へ行っていられる。6日、日出男学校入学お祝いに、ご飯炊いてくださった。5日古田おばあちゃん節句の餅あちこちでもらったのおばあちゃん食べず、持ってきてくださった。にかえに人が来たのでかつえ小母さん古田へ7日から行かれた。大阪のおじさん来られ、サケの缶詰くださった。お豆腐屋の隣の荒木さん兄さんの方、忠之兄ちゃんと一緒に解除になったら、今度は弟さんが出征される。12日にかえのおばさんにお餅五つもらった。あけての日、またいかなごのゆでたのくださった。昭美やんわりと大喜び。まだ暮れには困った。また珍しい飴ももらった。会社からいただくお金、辰巳屋の子に毎月もらってきてもらうようにしていただきました。12月分は貯金局が焼けて20日にいただきました。3,4月分は16日にいただきました。秀吉おじさんとこ、岡山で女の子が生まれた。名前は「としこ」だそうです。お父さんの友の田中さん、3月17日の空襲で、家は焼けたがみんな無事だったと、4月19日来られた。眞司に1円くださった。今は西代におられる。21日とらじおじさんと忠之兄ちゃん来られた。兄ちゃん大変元気になられた。おじさん4人に50銭ずつくださった。「買い出しにせえ」と6つくださった。26日お宮で「しょこん際」があり、案内状が来ましたので、お母さんが昭美と眞司を連れていきました。おうどんが出ました。すると昭美が「まだくれ」と言うのには困ってしまいました。それからお金1円いただきました。お父さんに本でも買って、送ろうと思うのですが、輸送の都合で本が入らないのです。29日天長節でこのおど(4へつづく)
4は紛失してありません。
〇昭和20年5月号 第22号
我が家の新聞1は紛失してありません。
眞司も大変元気です。根性悪いので日出男呼びつけていましたが、日出男1年生になったのでちょっと兄さんぶっていますので良く衝突します。昭美も大変元気で遅れもこの頃ようやく立つようになりました。口はよくしゃべって大変面白いです。「かあちゃん」僕たちが逆らうと「あぼ」「ほっといて」と言います。また「まめ」「まめ」と言ってしかたありません。やってもよく噛めぬと思って隠すと追わえ回します。この間の夕方、ご飯が済んでから昭美が刀をもってはっていながら「ヤア」と言うので僕が堪忍、堪忍と逃げてやると大喜びでいくらでも追わえて大変にぎやかでした。(おわり)
お父さんにお送りした大豆は、米についたものです。入れ物は僕たちのおもちゃを総動員しましたので寄せ集めですが許してください。前々からお送りしたいと思っていましたが買えませんので、米についたのをよい機会と喜んでお送りしました。今日28日小包ついたのお葉書であまり喜んでくださったので、またもし米についたらお送りしようかとお母さんと話しました。
・・・・・当番でした。今度隣保長の室田さんが出征されたので、お隣が隣保長になりました。今度我が家の隣保が一件増えました。中出さんの裏へ中出さんの親戚の田中さんという方が疎開してこられました。葉書を10枚くださいました。・・・・・日出男1年生入学お祝いと10円くださいました。僕にも10円くださいました。こないだ、内おじさんは、手を怪我されていました。またおじさんから僕にそれはそれは優しいなぐさめのお便りをくださいました。昭美より小さいしげきちゃんの下に、とし子ちゃんがいるのので朝は2人が一緒に泣いてビイ公が・・・・ガラス戸が響くぐらいだとおじさんのお便りに書いてありました。須磨のとらじおじさんが20日に来られ20円くださった。23日忠之兄ちゃん大変元気になられ、荒井から帰りと寄ってこられた。ちょうど辰巳屋が隣で豆腐あつらえて2丁くださっていたので、1丁出した。わさび何か知らんなりに買ったと6本くださったので3本隣へあげたらイカのさしみでもあったらなあと言っておられた。大西のまさちゃんが出征されました。また、古田のためじさんとこのえいひろさんも元気で出征されました。古田のおばあちゃんやためじおじさんは来るたんび1円ほどつづくくださいます。
〇昭和20年6月発行 第23号
お父さんいよいよ暑く、また戦いも厳しくなっていきましたがお変わりなくご養生のことと思います。今月も今から我が家の様子をお知らせいたします。
我が家
お母さんはおかげで相変わらずお元気です。我が家の廃物利用まだよそのんまでしております。小さいきれで昭美くらいの子の服や着物をモンペや簡単服縫い直したりしております。僕も元気ですが4.5日前足の傷に虫がわき、痛むので古田の上の村の高畑という所のお医者様へお母さんに連れられて行きました。すると「こんなことくらい心配することない」と傷を洗ってくださったらすぐ治ってしまいました。益江も大元気です。13日から麦刈りの勤労奉仕で10日間、原のお母の友達の家へ行って毎日昼ごはんよばれて、帰りに何か野菜をお土産にもらってくるのです。日曜日は日出男まで行ってよばれてくるので、あまり気の毒で、配給の大豆で三度隣で豆腐してもらって持って行った。日出男も大変元気です。まだはっきりわかりませんが日出男が学校から帰って言うことに「僕北之町の班長になったんやで」(我が家2へ続く)
我が家2,3の新聞は紛失してありません。
(3の続き)くださった。北之町の町内会長田中さん、お母さんを見るとお父さんのことをたずねてくださいます。お父さんの行っていた工場、二見へ来て早くからお父さん帰ったら二見工場へ行くようになっておりましたが、お金は明石工場でもらっていたのが今度二見工場でもらうようになり、19日お母さん手続きに行き、休みでまた20日に行き、手続して5.6月分は7月10日から20日までの内にくださることになりました。今度来られたおにかえのおじさん目が悪いので階段を庭へつけてもらいました。お父さんの出征される前から僕の友達の朝鮮の高井君の「郷里」は島根県だそうです。今度工場が戦炎はけんに入ってくださった。23日古田のためじおじさんとこのとっ子さんが、ジャガイモが取れたからと1くわんめ持ってきてくださった。17日古田おばあちゃん10円くれた。ではお父さん1日も早く良くなられるよう神様にお祈りしています。
〇昭和20年7月発行 第24号
お父さんだいぶん暑くなってきました。おかわりありませんか。家のものはみんな左のように元気でヤンキーの空襲にうち勝っておりますからご安心ください。
我が家
お母さんはおかげでお元気です。この頃、夜中に退避命令が出ると大変なことです。1番に益江と日出男を起こし、益江に昭美を負わし、それから眞司を起こしてみんな入り口へ出しといて、今度は僕を負うて、荷物を下げて出るのです。そうして田の方へ行って伏せているのです。僕も元気です。退避の時に薬や貯金通帳、着替えを入れる袋を僕が2つ、お母さんが2つ縫いました。退避の時、足のためお母さんや益江にえらいめさすのが辛いです。足さえ良ければもう少年兵になれるのに・・・。でも7月1日秀吉おじさんが公用でこちらへ来られ、その帰りに寄ってこられた時のお話によれば、この辛抱もう少しでアメリカに「あっ」と言わす時が来るそうでね。益江も元気です。学校も勉強はゆっくりとできません。それにさんぎょが多いのです。(2へ続く)
(我が家1の続き)日出男も元気です。この間の小型機の銃撃で日出男の隣の教室、2つ3つ穴が開いたそうです。でも生徒には何のこともありません。日出男がこの頃自転車が上手になりました。眞司も元気です。昭美をもりしている時大変兄さんぶって偉そうに言っております。昭美も大変元気です。この頃何か持つと歩きます。この頃よくしゃべるので面白いです。古田のおばあちゃんが来て、帰りに車を出しかけると、首のちぎれるほど「まあまあ」「まあまあ」と首を振ります。お母さんが使いに行ったとき思い出すと「かあちゃん」「かあちゃん」と泣くので困ります。益江が学校から帰ると飛び上がって喜びます。この間お母さんが洗濯をしていると庭へ降りて庭をガサガサはって角へ出て道の真ん中まで行って、牛が向こうから来よると手をたたいて喜んで座って待っているのです。それには牛の方から止まってしまいました。(おわり)7月7日。6日より7日へかけて明石焼爆ばんなので、近く見えてものすごい火だった。ちょうど古田おばあちゃん来ていて荷物持ってもらって逃げた。
7月7日森さんのおばさん僕の傷拭くのにオキシフル持ってきてくださった。来られるのは空襲の後で電車通らず明石から歩いて。7月8日とらじおじさんきた。益江駅へおじさんの帰りの切符買いに行って10円もらっていた。サラダして出した。裏から米や飴もらって帰られた。10日突然工場の用事で秀吉おじさん来た。おじさんの話を聞けば、心丈夫。今の不自由も何ともない。5円くださった。すぐ帰られた。にかえのおじさんあんまや針をする人で僕に針の職をつけと言ってくださる。この頃は二見へあまり小型が来るので神戸へ行ってしまわれた。14日森さんのおばさん明石から歩いて僕の体に油がいいのならと持ってきてくださった。川口さんおうしよう21日に行かれた。6日田に変な虫がいる。ビイ公がまいたのだろうと大騒動。調べてみれば気候の加減でわいたもの。まだかえって益虫と分かった。お隣はいつも本当に親切にしてくださる。この頃お湯沸かすの焚き木がたくさんいるにおとふするたびお湯くださる。それで僕行水してもらう。24日から二見も小型機の機銃掃撃がよくあるので布団を何枚も積んで座敷に入るとこをこしらえた。24日の初日は被害があったが、この頃はみんな退避が上手で被害はなし。初日P51はっきり見た。30日沖の舟が2隻もぼうぼうと燃えるので敵機の目標になると心配で隣が晩、野原で寝ようと連れて行ってもらった。おばさんがずっと眞司の手を引いて連れて行ってくださった。
うでづかのおばさんお盆の歳暮の代わりと麦くれた。お母さん田舎の人の服縫ってあげると麦をくださる。その麦ときなこに豆引いて混ぜてはったいにしてお父さんに送ってあげたいのですが、今引いてくれないのです。家ですり鉢で引くと粗くてたくさん引けないのです。またそのすり鉢で引くとき、昭美がすり鉢を動かないように抑えるのです。そうして食べたくなると口をああんと開けるのです。「ふみいわ」という朝鮮さんが我が家を子どもたくさんおいてお父さんが出征していると親切にしてくれ、お父さんが行ってからずっと焚き物くれよったが、当分ふみいわもなかってお母さんが山でしてきよったが、またくれたので麦一升あげた。ではお父さんお元気で。僕たちも元気で頑張ります。また8月号で。